人は他人の『幸せ』を値踏みする

前回は「50代独身男性は不幸なのか?」というテーマで書きました。
世間からどう見られているかではなく、自分自身で幸福をどう定義するかが大切だという話でした。

今回はその続きとして、「人は他人の『幸せ』をどう値踏みしてしまうのか」という場面を取り上げたいと思います。

目次

あるお葬式での出来事

あるお葬式でのことです。
若い僧侶が老師の脇導師を務めていました。

亡くなられたお祖父様を悲しむご家族。
参列者や弔問客は、生前のお祖父様のビジネスでの成功や趣味の充実ぶりを語っていました。

そのとき、若い僧侶はご家族に言いました。
「お祖父様はとても充実した人生を送られたのですね。お幸せな人生でしたね」と。

すると老師は静かに諭しました。
「亡くなられた方が幸せな人生だったかどうかは、本人にしかわからないことです。一般の方が言うならともかく、僧侶が口にする言葉ではありませんよ」

若い僧侶ははっとし、仏教の本質を思い出しました。
――幸せとは他人が決めるものではなく、自分の心のありようにこそあるのだと。

老師の説法

その場で老師は参列者に向かって語りました。

「人は他人の人生を幸せだった、不幸だったと評したがります。
とくに葬儀の場では、ご遺族を慰めるため、あるいは沈黙を埋めるために、『〇〇さんは幸せな人生でしたね』と口にしてしまう。だが、それは余計なお世話です。

幸せは人から評価されるものではありません。
財産や社会的成功でも決まりません。
ただ、その人が何を思い、どう感じて生きたか――それだけが大切なのです。

葬式は、故人を偲ぶだけの場ではありません。
死を通して、生を映し出す場でもあるのです。

人は必ず老い、病み、死にます。例外はありません。
『私も必ず死ぬ』と腑に落としたとき、いま生きている一瞬一瞬がより鮮やかに輝きます。
死があるからこそ、生に価値が生まれるのです。

故人が幸せだったかは故人にしかわからない。
けれど、あなた自身には問うことができます。

――あなたは幸せな人生ですか。

もし即答できないのなら、いまから幸福について考えなさい。
そして『幸せだった』と言って死ねるよう準備を始めなさい。
人生は有限で、そう長くはないのだから。」

学び

老師の言葉は私たちに大切な視点を示しています。

  1. 幸せは人から評価されるものではなく、自分自身で決めるものである。
  2. その基準も世間の物差しではなく、自分が納得できるかどうかにある。
  3. 他人の幸せを論じることは不毛であり、まずは自分自身の幸福を見つめる必要がある。

世間の基準に振り回されず、**「自分にとっての幸せは何か」**を見つめる時間。
それは誰にとっても欠かせない、大切な営みだと思います。

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